2013年6月25日火曜日

宮古の迎え火

これは以前、mixi か何かに投稿した文でしたが、再度投稿します。
 


迎え火送り火は子供の頃宮古で何回も経験しました。この時期になると町の商店には松の薪がどこでも売っていまして、どことなく町中あの松ヤニの鼻を突く臭いが立ち込めていた思い出があります。家の前の通り沿いにバケツの中に松の薪を燃やし、自分たちの先祖の往来の目印にする訳です。その横でおばあちゃんと一緒に、花火をしたものです。
陸前高田の景勝地、高田松原の残念ながら津波にのまれた松を薪にし、そこへ思い思いの言葉を書き込み、その薪を京都の大文字で燃やす計画が中止になったことが今、話題になっている。苦情なども含めて900件以上の反響が寄せられているが、ここに一つの人間の本質や非情さが現実が現れている。






いくら人々が「僕らは一つ」とか「頑張れ日本」とか、周りから口うるさく聞こえてくるが、現実には被災地を遠くから見ている、対岸の火事なんだということ。完全に被災地と他の地域では温度差があり、殆どが他人に起きている事柄と思っているに違いない。京都しみんを守りためと託けているが、なんのことはないただ自分たちの伝統を保護したいだけなんだ。結局自分が一番大事で、自分の町が一番大事であると断言したわけだ。
でもそれが本来の人間の姿であって、「僕らは一つ」なんて言ってるのが現実的じゃない気がする。

もし自分の大切な人が何かの事態に巻き込まれたとする、自分だったら他人、いや家族も含めて、蹴落としてでも助けようとするのが、本来の姿なんじゃないかな。
終戦後、朝鮮半島に多くの兵隊や民間人が取り残され、またソ連の侵攻(これがまた頭に来るが、日本が敗戦したのにも関わらず、朝鮮にいた日本人を侵略や略奪、おまけに兵隊たちは捕らえられ、抑留される。それでもってそのドサクサに北方領土を侵略するわけだ)により38度線を越えて必死で日本の帰国を目指したけれども、生きる為には非情にも女を差し出し(その為女性はみんな男のように丸刈りにしていた)、その間に逃げる人もいるし、店員オーバーになった船に乗り込もうとして、しかしこれ以上乗り込んできたら船が沈んでしまう、なので乗り込んでくる人間を次々に蹴落とし、蹴落とされた人間は死んでいく。そして蹴落とした人間は生きている
人によってこのような惨癖をどのように解釈するかは個人差があるが、もちろん放射能などの懸念もあるのだろうけど、今一度、簡単な言葉ではなく、一人ひとりが考えるという行動をして欲しい。そしてあまり期待ぶることを言ってしまうことも控えた方がいい。



 
 (この写真は被災した直後の、宮古のcafe the S。この後已む無く盛岡への移転を決意)
 
 

「僕らは一つ」とか「貴方は一人じゃない」とか安易にのたまわると、現実を目の当たりにするとき人間は脆く崩れてしまう。人間の本質を暴くものが一番怖い。そう、人間は本当に非情な生き物であるから。もし「僕らは一つ」と言えるのであれば、被災した人間と共に「死ぬ」覚悟が出来ているかどうかだ。それが出来れば本当の意味で「一つ」になれる。



 

2013年6月17日月曜日

Led Zeppelin そして ZEK3 へ

その昔僕は地元のレコード屋の店主と意気投合して、ゼッペリンのコピーバンドを結成しました。
勿論、僕がもうプロとして活動していました。

名前は「The Knobs」。

1970年にゼップがデンマークにツアー中、フェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵(あの飛行船を開発した人)の子孫だか孫だかが、「ゼッペリンの名前を使うな」と講義した為、その日の公演は「The Knobs」(意味はここでは書けません)という変名で演奏した。という実際の話からとったバンド名です。
まあ、これほどゼップ(いやボンゾかな)に造詣の深いジャズ(とは微塵も感じていないけど)ドラマーも、いないと思います。自画自賛で申し訳ありませんが。嘘ではないと思います。

結構いると思いますが、エルビンを聴いてボンゾを感じる。ボンゾを聴いてエルビンを感じませんが。マッコイのパッションダンスを聴いて、ボンゾを感じ、ジャズも楽しそうだな!
そんな単純な理由でジャズを始めましたが、その気持ちは今も変わらないのは、このエルビン&ボンゾの普遍的な大きさなんでしょう。

オヤジが「ジャズは自由だぞ」と僕にジャズをやるよう促してくれましたが、中々ジャズという特有の音楽に一歩踏み出せなかった僕に背中を押してくれたのが、ボンゾだったのです。
ゼップの有名なブート盤で1971年の初来日の最終日、9月29日の大阪フェスティバルホール(関係ないけど、パープルのインジャパンも大阪フェスティバルホールの録音で、メタリカのドラマー、ラーズがステージに膝まついてキスをしたという逸話がある)の音源があるのですが、後半のMOBY DICKでロバートがボンゾを紹介する際「マックス・ローチ!ジョンボーナム!モビーディック!!!」と叫ぶ。もうこれを聴いた時。間違っていなかったと、確信しました。



Good Times Bad Timesでバスドラの3連アタマ抜きやるのは普通ですが、ショーターのスピークノーイビルで3連のアタマ抜きをやるのは多分、僕かエルビンでしょう。

Immgrant Song であの印象的なバスドラフレーズをやるのは普通でしょうが、それをThere is no greater loveでやってしまうのは、僕だけでしょう。そう感じてしまうのは、ボンゾが常にフラッシュバックしてしまうからなのでしょう。

だからこのバンドが結成されて、演奏するというのは的を得ています。このバンドは僕にとっての一つの完成系です。このバンドを聴くということは、僕のドラムが解かるということです。

前置きが長くなりましたが・・・

いよいよ明日からZEK 3 甲信越~東北ツアー のスタートです。

今回は鹿児島からローディーがやってきます。名前は秋葉さんです。

しかも1982年製のポンコツ車で、高速も使わずひたすら下の道で東京を目指してくる、
とても奇特な方です。その秋葉さん含めZEKの3人。計4人の珍道中が始まります。

皆様、応援のほどよろしくお願い致します。

またお近くの方は是非ライブにお立ち寄り下さい。
絶対にソンはさせません!






6月18日(火)甲府 桜座
http://www.sakuraza.jp/
 6月19日(水)長野 バックドロップ
http://www.back-drop.jp/
 6月21日(金)新潟 ジャズ・フラッシュ
http://flash.pagans.jp/
 6月22日(土)酒田 ラッシュ・ライフ
http://www.gurumesagasu.com/pref/yamagataken/city/sakatashi/sweets/cafe/0234223303_1256/blog/blog.goo.ne.jp/torukin7/e/87351a9e49d1453af05f90fcbfeb057d
 6月23日(日)山形 瑳蔵
http://www.yway.jp/shop/961/
 6月25日(火)宮古 カントリーズ・カフェ
http://r.goope.jp/countriescafe
 6月26日(水)盛岡 BAR CAFE the "S"
http://livecafe385.com/thes/
 6月27日(木)仙台 KABO
http://www.k3.dion.ne.jp/~jazz3792/
 6月28日(金)石巻 大もり屋 3階ホール
http://tabelog.com/miyagi/A0404/A040403/4010970/


 

2013年5月13日月曜日

日野元彦 命日

今日の5月13日はHighest Mountain、Over The Top、大先輩ドラマー、日野元彦の命日である。
1999年。享年53歳。今でも信じがたいが、無念の早すぎる死である。



 


六本木のアルフィーはトコさんの店である。
僕が初めてアルフィーに出演したのは、僕は20才からジャズを演奏し始めたので、たぶん21才とか22才頃。1991年とか92年とかの頃だったと思います。

今でこそ常識だが、大概ドラマーはシンバルとスネアなどは持参するものだけれど、ガキだった僕はスネア(しかもラディックの402!)しか持参せず、シンバルがジャズに大事なパーツという事を知らなかった僕に快く(と思うけど)セビアンのシンバルを貸してくれて、しかも気前がいい時にはシンバルを頂いたりしました。カップの裏にトコさんのサインがあるそのシンバルは、今では僕の宝物の一つとなっている。


その頃ボーヤは井上功一だったかな?藤山がやっと朝のピットインに出始めたころだったな。1987年のジャズイン浄土でトコさんとツインドラムをやった時は藤山がボーヤだった。




トコさん仕事ない時は、必ずアルフィーに来ていました。
演奏が始まると、店の端に席を陣取って、僕らの演奏に耳を傾けます。
ガキだった僕はそれが、プレッシャーに感じ、物凄く緊張していました。
あまりに露骨に緊張するものだから、わざと真前のパチンコ屋(よく負けてた!)によって、僕らの緊張が解け出すセカンドセットぐらいに顔を出す。そんな心遣いもある優しい大先輩でした。


しかし優しいだけじゃなく、的確なアドバイス、叱咤激励、(今風に言えば)ダメだしはしょっちゅうありました。また覇気のない演奏にたいしては、そのミュージシャンに激をとばしたりと、音楽、ドラム、に対して深く考えていた人でした。

オヤジとは、オヤジがまだ学生ぐらいの時から付き合っていたようです。
トコさんは十代前半からショー周りをしていた神童でしたから、その学生あがりの下手糞ピアノによく文句を言ったそうです。
2人が弘田三枝子のバックで一緒になった時があったらしく、その事をトコさんが僕に話してくれましたが、「ホンダは下手でさ、とにかくバッキングがなってなくて、よく怒鳴ったんだよ!ホンダ!ヤメロっ!!!って」

これはオヤジから聞いた話だけれど、弘田三枝子のマネージャーが神童ドラマーのトコさんと、下手学生あがりピアニストのオヤジとの扱いを格差つけていたらしく、ある日電車(勿論、新幹線じゃあないよ)で青森に行くことがあったのだけど、トコさんは指定席、オヤジは自
由席で、しかも混んでいたらしく、青森まで殆ど連結器のところで突っ立ってたそう。それを見かねたマネージャーがオヤジのところにきて、「これで美味しいものでも食べて」と500円を渡されたって。

その後の2人の活動、活躍はご存知の通り。
1990年には本田竹曠のジャズ回帰にトコさんが一役買って、本田名義の「Back On My Finger」という素晴らしいピアノトリオ・アルバムを制作。



僕がトコさんと共演したのが、神田のTUCにて江藤良人と3人で演奏したトコさんのドラムアンサンブル曲、「飛翔」が最後だった記憶があります。江藤と僕は本当にトコさんに可愛がってもらいました(泣)。


トコさんの奥さん容子さんが明かしてくれましたが、病床のトコさんが痛み止めのモルヒネを注入して意識が朦朧としている中、「珠也を呼んで来てくれ」と言ってたよ、と、そっと教えてくれたのがとっても嬉しかったです。





今でも思い出します。

あの甲高い声でこういう言葉が。

「珠也!違う!!!」

トコさん!本当にありがとうございました。

改めてご冥福をお祈りいたします。

珠也

P.S.
そんなトコさんの命日の今日。アルフィーで日野元彦メモリアルライブが行われます。
もちろんメインは、お兄さんの日野皓正さん。
飛翔した御霊に届くような、盛大なライブとなるでしょう!


http://homepage1.nifty.com/live/alfie/


 

2013年5月12日日曜日

本田竹曠 NY滞在記 Vol.1(?)

先日のアケタ出演時に演奏前、アケタのカウンター下に積まれてるジャズ雑誌を漁っていて、多分最新のジャズ批評を手に取りました。
で、それをパラパラ捲っていたらこんな見出しを発見!「JAZZ meets 杉田誠一 Vol.5 本田竹曠」という、杉田さんのコラムを偶然見つけました。


杉田さんは現在白楽に「ビッチェズ・ブリュー」という小さなジャズクラブを営んでいて、定期的にライブも行っていますが、僕は昨年に引き続き今年も竹内直さんの5DAYSに呼ばれまして、直さんとDUOをしました。

記事の内容は、現物をもって確かめて確認して欲しいのですが、僕のオヤジと僕自身をオーバーラップさせた内容となっています。
その昔僕ら家族は西武線沿線の下井草という駅に住んでいましたが、同じくして杉田さんも下井草に住まいがあり、オヤジともよく交流を持っていたようです。


それともう一つ付け加えておくと、1970年にオヤジは(鈴木勲氏と共に)渡米し、NYに2週間強滞在して本場のジャズを吸収していましたが、その時一緒に動向していたのが杉田誠一さんでした。
そのジャズ批評に一枚だけその時の写真が掲載されていたので、杉田さんには無断で申し訳ありません(汗!)が添付します。



僕もこの写真は初めて見たので、ちょっと嬉しくもビックリしました。
オヤジからはこの写真の逸話は聞いていましたが、写真があるとは!
場所はあの有名なジャズクラブ「ヴィレッジ・ヴァンガード」で、エルビンジョーンズクインテットにシットインした決定的瞬間の写真。
これでオヤジが僕に言っていた事は事実だったことが証明されたのでした(笑)。
オヤジによるとこの時はエルビンの他に、フランク・フォスター、ジョージ・コールマン、ウィルバー・リトル、チック・コリアが居たそうです。
曲は1曲だけで「Softry as in a Morning Sunrise」を演奏したと言っていました。しかも通常演奏される曲のKEYはCマイナーなのですが、その時エルビンは「Bマイナーだ!」と言ってBマイナーで演奏したんだ!って言ってた。


他にオヤジから聞いたNYの逸話は、スラッグスでリー・モーガンやブッカー・アービンを聴いたり、アートブレイキーの運転する車でハーレムを周回してもらったり、その時あるクラブに立ち寄ったらそこでフィリージョージョーンズが練習していたらしいのだが、フィリーは以前日本で「事件」を起こしており、その事を根に持ってるフィリーはオヤジの事を見てすぐさま「ジャップ!帰れ!」と罵られたそうです。

ソウホウの辺りではアーティストハウスが沢山あったそうで、そこでチック・コリアにピアノレッスンを受けに行ったとも語ってました。
だけど「チックの奴、ピアノを弾かないでドラムばかり叩きやがって!俺がアイツのドラムの伴奏してやったんだ!」なんて言ってな(笑)
でその後、ニューポートジャズフェスに出演する為にNYに来ていた渡辺貞夫グループに急遽参加して、演奏する訳です。

なんてオヤジが言ってた事を思い出しながら、そのジャズ批評を読んでいました。
どうぞ皆さんも手にとってその文を読んでください。


あっ、最後にこんな文があった。
「何故か。殆ど最後の無頼、松田優作に、珠也のドラムって同類項が、あるように思えてならない。そうそう、優作といえば、下井草駅前の西友でしばしば見かけたもの。」


なんだか無性に嬉しいぜ!


珠也

2013年2月4日月曜日

Profile

1969年、東京生まれ。父本田竹広(P)、母チコ本田(Vo)、叔父に渡辺貞夫(As)、渡辺文男(Ds)という音楽家系に育ち、幼少の頃から自然とドラムスティックを手にしていた。小学6年生の時に独学でドラムを始め、1982年、おりしも人気絶頂だった本田竹曠率いる”ネイティブサン”が「第1回斑尾ジャズフェスティバル」に出演した際、飛び入り参加したのが初舞台となり、その後、ネイティブサンのライブやレコーディングに参加するようになる。
1989年頃から父の勧めでジャズを志す。独学とはいえ血筋の良さから来る天賦の才能に加え、アグレッシブでパワフル且つ感性豊かなプレイで、様々なジャンルをこなすようになる。

ネイティブサン以後、本田竹曠ビッグファン、ポールジャクソングループ、北海道バンド、ハイタイドハリスブルースバンド等を経て、辛島文雄、大野俊三、伊藤君子、渡辺香津美、増尾好秋、渡辺貞夫等のバンドに参加。
中でも1996年イタリアに於いて、大型日本紹介事業フェスティバルの一貫として、辛島文雄カルテットで4都ツアーを行い、初の海外公演に参加する。

そして、マルウォルドロン、ジュニアマンス、秋吉敏子と共演するなど、数多くのセッションやレコーディングに参加し、着々と自己の音を確立させていく。

1997年、子供の頃から愛聴してきたロックやファンクミュージックにジャズを融合させたグループ「
本田珠也PLANET X」を結成。
ライブハウスを中心に活動し、2000年3月、東芝EMIより初リーダーアルバム「PLANET X」をリリース。
この間1999年5月、大野俊三(Tp)の誘いで香港へ招致され、ユージンパオ(G)等と初共演する。これを機に2000年12月、香港高山劇場<Ulf Wakenius(G)と共演>、2001年5月、シンガポールインターナショナルフェスティバル、同年9月香港シティーホール公演等に出演する他、香港、日本、オーストラリア、デンマークから4人が集められ、「HONGKONG MEETING」と題したレコーディングにも参加するなど、国内に留まらず多くのミュージシャンから絶大な支持を得ている。

2001年3月、大口純一郎トリオ、菊地雅章トリオ、ケイ赤城トリオと立て続けに3人のピアノリーダーのアルバムレコーディングに参加し、3人3様の強い個性のピアニストから称賛され、以後この3人とのコラボレートは、固く結ばれている。

2003年12月、タイランドインターナショナルジャズフェスティバルを筆頭に、香港~シンセン~上海のツアーに、
現地のミュージシャンと共に参加。
2007年9月16日には、リーダーとしては待望の2作目となる「Elvin Jones Tribute Band」をリリース。いかなるトリビュートアルバムとは違い、本田珠也のロックスピリット全開押しまくりで”その界隈”では、好評を得る。

またその年から菊地成孔DubSeptetに参加し好評を得る傍ら、最近の動向としては、積極的な即興演奏の活動が挙げられる。
その主な共演者には、Peter Brötzmann、Thomas Morgan、Todd Nicholson、Ken Vandermark、Wacław Zimpel、Nils Petter Molvær、八木美知依、大友良英、坂田明等。

現在、音楽学校メーザーハウスでドラム講師も務め、作曲にも力を入れる等、精力的に活動している。